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文久2年閏8月11日(1862.10.4)
【江】幕府、来年2月の将軍上洛を内決

■将軍家茂の上洛
【江】文久2年閏8月11日、横井小楠の意見を聴いた老中板倉勝静は翌年2月の将軍上洛を内々に決定しました。

板倉邸を訪問した小楠は、同席の大目付岡部長常・浅野長祚を含め、種々の意見を交換しました。この中で、懸案の将軍上洛問題については、「大樹公(将軍)上洛せられずては公武の御合体望むべからす、開鎖(開国・鎖国)の国是も定まらざるべければ、是非御上洛ありて然るべし。又、此度の御上洛は神祖(徳川家康)開国の頃一年間に両三度も上洛ありし振合に倣い、専ら太平の文飾を省かるべし。是一には国幣の経費を減じ、ニには質素易簡を天下に示し、三には旗下の諸士をして太平の迷夢を醒覚せしむるの便益あるべし」(『続再夢紀事』:()内はヒロ。また読みやすいように句読点・濁点をつけたり、カタカナ・漢字を適宜平かなに変換しています)と論じ、板倉以下一同もこの意見に同意し、翌年2月1日の将軍出発が内定したそうです。

<将軍上洛問題の背景>
将軍の上洛は寛永年間以降行われていませんでした。大きな理由は多額な費用がかかることだったそうです。文久年間、幕府の財政は逼迫していましたが、にもかかわらず5月26日、幕府(久世広周政権)は上洛を決定し(こちら)、6月1日、在府の大名を登城させ、布告しました(こちら ただし、日程はあいまいにしていました)。将軍上洛は、春嶽が幕政参与に就いて以来の持論でした(こちら)、(長州藩主毛利敬親の建白書(こちら)もあり。朝幕関係を改善できれば上洛費用(予算150万両=約360億円*下記参照)を惜しむことはないと、決断したのです。

ところが、失脚した久世広周に変わって幕閣をリードした板倉勝静は将軍上洛に熱心ではありませんでした。大小目付・勝手方も成算のない上洛は中止し、その費用で海軍の振興を図るべきだとの意見でした。これに対し、公武一和の成就には将軍が上洛して失政を陳謝し、朝幕関係を改善することが肝要だと考える春嶽は、公武一和が成らなくては陸海軍が充実しても意味がない、また、費用節約のため将軍上洛は軽装にすればよい、と論じました。大目付岡部長常は軽装の将軍上洛には反対し、後見職・総裁職が名代として上洛をすればよいと、春嶽の意見には同意しませんでした。

しかし、岡部は、8月27日に横井小楠の幕政改革論(将軍上洛を含む)を聞いて感服し(こちら)、また、閏8月1日には板倉も横井の意見を聞いて、改革断行を決意しました(こちら)。(←もちろん、幕政改革が進まないことに憤慨した春嶽の登城ストもありましたが)。これがこの日の上洛時期内定につながったのです・・・。

文久の幕政改革といえば、一橋慶喜と松平春嶽がリードしたという印象があると思うのですが、その陰に小楠がいたのは歴然ですね^^。ところで、この日の小楠は将軍上洛の障害の一つとなっていた費用問題について、体面を気にして簡素化(節約)に同意できない幕府に対してその大義名分を示したところが、ポイントだったのではないかなぁと思います。(相手の立場にたつ議論により問題解決をするとは、小楠ってなかなか交渉上手です^^)。

上洛予算150万両の換算:
150万両は今のお金に換算すると、約360億円です!『江戸の宿』によると米価を使った換算では、江戸時代は1両(=1石)=6万円で計算するのが最近の学説らしいのですが、開国以来の物価高騰で文久3年には1両=約0.4石にまで購買力が下がっていたので、1両=2.4万円で換算してみました。1両=6万円だと600億円デス@@。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝2』(2003.10.4)
関連:■テーマ別文久2「将軍徳川家茂上洛問題

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